桜桃幻影〜ファントム・チェリィ〜




「何をやっているんだ」
 第一声は無機質な呼びかけで始まる。
 顧問とのミーティングを終え部室に戻った手塚がドアを開けて一言そう問いかけた。
 大石が振り向いて笑う。
「あぁ、頂き物なんだけど冷蔵庫に入れておいたんだ。手塚も食べるかい?」
 彼が持っている白い箱を見て首をかしげた手塚。
「食べるって何をだ」
「桜桃」
 簡潔に返された答えに白い箱を横目で見れば確かに中には赤い実が詰まっていた。
 特に興味を示すわけでもなくそのままロッカーを開けて着替えようとすると
 先程の簡潔な答えを吐いたテニス部きっての天才がロッカーに背を預けている。
 考えるよりも先に声をかけた。
「どうした」
「君に届け物をね」
 そう言って学ランのポケットから薄いピンクの封筒を出す不二。
 手塚はそれを無言で受け取る。そして暫くその手紙を見つめた後口を開いた。
 が、それよりも先に別の声が飛ぶ。
「不二、不二!桜桃食べて!!」
「さっき1つ貰ったよ、英二」
 残りのレギュラー達に囲まれていた菊丸の叫びに不二はロッカーから背を話して応えた。
 しかし菊丸は続ける。
「アレやって!この間言ってた舌で茎結ぶヤツ!!」
 不二はあぁ、アレね。と呟いてレギュラー達を見回した。
「みんなも出来るんじゃない?やってみなよ」
 不二は白い箱に手を伸ばし赤い実を1つ摘み出す。
 それを見た他の面々も1つずつ手に取った。
 そして実を食した後、茎だけを口に残す。
 言葉を発することなく数分間それぞれ口を多方向に動かす男子中学生8人。
 その異様な光景を背に着替え終えた手塚は不二に瞳で促されて
 仕方なく自分も白い箱から1つ桜桃を取りだした。
「で。どうだった?」
 あっという間に掌へコロンと結ばれた茎を出した不二。
 その声につられるように何人かが顔を上げる。
「以外に難しかったな」
「え?俺簡単でしたけど」
「出来た事を素直に喜んで良いのか……」
 こちら勝ち組。
 乾、越前、大石と順に茎を出した。
「えー?出来ないィ。無理!」
「オレもちょっと無理ッスねー」
「出来ない……」
「オレも駄目だった」
 こちら負け組。
 菊丸、桃城、海堂、河村と次々に音を上げる。
「むー、手塚は!?オマエやったの?」
 自分は出来なかった菊丸が八つ当たり気味に手塚に話を振った。
 何も言わない彼に不二が囁く。
「出来てるんでしょ。出せば?」
「判っているなら話を逸らす位してくれ」
 顔をしかめて手塚は掌に桜桃の茎を出した。
 菊丸が興味津々に尋ねる。
「え?ナニナニ。手塚はキス上手いわけ?」
 誰もがコイツ馬鹿だ。と思ったのは言うまでもない。
 瞬間冷凍された室内で頬に冷や汗が伝う。
 しかもこの状況を脱する為に放たれた言葉は更に残酷だった。
「うん」
 不二の頷きによって菊丸が頭を抱え込む。
「良いデータがとれた。だが、そこで肯定されるとどう反応して良いか判らなくなるよ」
 パタンとノートを閉じて乾は眼鏡を押し上げた。
 その場の空気を代弁したこの言葉にも不二は肩を竦めるだけ。
 そしてチラッと横目で時計を見ると声をかける。
「ほら、もう6時半過ぎるよ。手塚ぁ、まだー?」
 その声に日誌から顔を上げた手塚に凍ったままの部員達を外に押し出した大石が呼びかけた。
「悪い、今日用事があるんだ」
「構わない。鍵はかけておく」
「それじゃ!みんな早くしろ」
 一気に人口密度が低減した部室に残った手塚と不二はお互いに沈黙を守り通す。
 サラサラとペンを走らせる音だけが響いた。
 やがて不二は出されたままの白い箱に気付いて
 壁際から立ち上がるが箱の中をふと覗いてそっと沈黙を破る。
「見て。2つくっついてる桜桃」
 書き終わった日誌を閉じてその手元を見やった手塚の瞳が和らいだ。
 しかしスッと何かを思いだしたかのように、その瞳を細める。
「どうして2つ一緒なんだろうね」
 心持ち弱くなった声音に手塚は不審そうに眉をひそめるがやがて言葉を選びつつ答えた。
「淋しいんじゃないか」
「脳みそわいてんの?」
「……じゃぁ何だ」
 間髪入れずに吐かれた不二の毒舌にうめく手塚。
 そんな彼に不二は首を傾げる。
「何でだろうね」
「は!?お前人の答えを馬鹿にしておきながら何だソレは」
 手塚はムッとした顔で机に肘をついた。
 不二はその向かいに座ることなく話す。
「2つ一緒じゃ、どっちかがどっちかを潰しちゃう。
 どっちかがどっちかを置いていちゃう。最後には、離れるんだ」
 まるで何かを重ねるように。
「後で独りを実感するんだ」
 じわりと染み出た悲しみを消し去る為に作られた笑顔に手塚は顔を歪めた。
 彼にこんな想いをさせてしまった原因に心当たりがある。
 しかし吐いた言葉は以外にも芯のある物だった。
「お前は何だ、悩むのが趣味か?不安要素が主な栄養分か?」
 一瞬にして不二の笑顔が崩れる。
 あっという間に現れた鋭い視線が手塚を刺した。
「いい加減僕の悩みも鬱陶しくなった?それなら……」
「自分に腹が立った。
 そんな不安で追いつめられたような顔をさせるまで苦しめた原因を作った自分に怒りを覚えた」
 手塚のトーンの下がった声に瞳を見開く不二。
 その美しい瞳にはあからさまな同様と驚きの色が宿っている。
「そんなに心配か。そんなに俺は頼りないのか」
 手塚が苦しそうに呟いた。
 不二は思わず首を振る。
「違っ!……そんなんじゃなんだ。ただ恐いだけなんだ。
 僕はいつかは終わるものに永遠を望んでる。
 手塚がいつか女の人を好きにならないなんて保証はないのに……」
「それは約束しかねるな」
 困ったように笑う不二にあっけらかんと答えた手塚。
 不二は一応尋ねてみた。
「普通そこで肯定しないでしょ。そんな事無い、とか慰めてくれないの?」
「出来ない事を出来ると言って何になる。第一不二はそんな事を言われてどうする」
「ひく」
「だろう?悪いが保証は出来ない。所詮男心も秋の空、だ」
 ゆっくりと不二の頬に手を伸ばしながら手塚は瞳を細める。
「愛してる。ただ終わりの日が来るまでお前を一番愛しいと思う。
 誰が何と言おうと、それは確かだ」
 その雪白のような言葉に息を止めた不二はかぁっと頬が紅く染まるのを感じた。
「何だ、その顔は。桜桃に勝るとも劣らない赤さだぞ」
 手塚にクスッと笑われて不二はようやく講義の声を上げる。
「い、いつからそんな台詞無表情で吐けるようになったわけ?
 あーもう信じらんない、僕ばっか赤くなって!」
「無表情はないだろう」
「昔の手塚はすぐ赤くなって面白かったのに今じゃ形勢逆転?有り得ないよ」
「いつの話だ……」
「30年前くらい」
「計算が合わない気がするのは俺だけか?」
「本っ当に何時の間にフェミニスト気取ってんの?」
「場数踏んだからな」
「他の女で?」
「お前だ馬鹿。人聞きの悪い事を言うな」
 乱反射して飛びまわる不二の言葉に1つずつ答える手塚。
 その律儀さに不二は溜息をつき興奮して潤んだ瞳を伏せた。
 何で彼は冷静なんだろう。
 発生した熱を冷ます為にテニスバッグを担ぐとドアへ向かう。
 もう当初の目的なんて関係な……。
「うゎっ!」
 急に片手を引かれてバランスを崩した。
 不二は傾く感覚に焦るがトンッと柔らかい音で自分の体が支えられた事に気付く。
「ちょっと何するの!」
「それはこっちの台詞だ。まだ話は終わってない」
 不二は早い話が逃げてしまおうと思っていたので顔をしかめた。
 しかしそれも長くは持たない。
 有効期限は彼の言葉を聞くまでだ。
「手紙の断りの返事は明日必ずしておく。心配するな」
 自分でも何て現金なのかと思うくらい気持ちが晴れていくのがわかる。
 僕ってお安く出来てるなぁ、と不二は苦笑した。
 それでも負けっ放しは性に合わないと支えられた体を一旦離して
 勢いよく彼に体当たりを食らわす。
 ドフッと余りよく響かない音がして不二の体は改めて手塚の長い腕に包まれた。
「今回は僕の負けだよ。仕方ないから不毛だろうと何だろうと、もう少し君を想ってみる事にした」
 顔を上げて悪戯っぽく微笑めばスッと和らぐ瞳。
 不二は周りの音が聞き取れないくらいまで自分の顔を手塚の胸に埋める。
 そのせいで、彼の最後の一言が聞こえなかった。
 後で不二が知ったなら悔しがるであろう呟きが。

 「安心しろ。そう簡単に終わりの日を迎えられる程俺は素直に出来てない。
 最後まで足掻いてやるさ」