「っあぁ……ぁ……」
体中の血液の循環が加速する。
五感が鋭くなって空気の流れさえも肌で感じられた。
思考は妙に冷静で驚きも戸惑いもない。
しかし次の瞬間、その扇情的な光景に一筋の光が走った。
「あ、きら……さ、ま……!」
ど くん。
血が、騒ぐ。
金の爪
「……珍しいな」
それはただの独り言で、足早に過ぎ行く景色を眺めて呟く。
それでもミラー越しに彼の眼鏡の奥の瞳を見やっていたからには
多少なりとも返答を求めていたのかもしれなかった。
飛天閣からの帰り、本宅に寄って2、3調べ物や執務をこなしてから
現在主に寝泊りしている別宅へと帰ると出迎えた執事が口を開いた。
「暁様がお留守の間に飛天閣の方よりお電話を頂戴致しまして、
何やらお忘れ物があるので暁様ご本人にお越し頂きたいと。
若い男の方だったと存じ上げますが……」
「男……?」
「はぁ、如何致しましょう」
思い当たる品など無い。
思考回路に少しの引っかかりを感じながらも
また次に立ち寄る時にでも尋ねてみようかと考えて
そのまま足を進めようとすると、
不意に珍しい声に呼び止められた。
「戻りましょう、暁様」
その普段とは違う硬さを持った声音に瞬間眉根を寄せる。
しかし決断は早く、体の向きを変えて
再びドアを開かれた車の後部座席へと乗り込んだ。
戻ると提案した張本人、櫻井もドアをそっと閉めて運転席に座る。
「暁様!如何なさるおつもりですか!!
智一もあろう事か暁様にご意見するなどふざけた真似を!」
「別に構わない。気が変わった、留守を頼む」
窓の外の執事を一瞥するとスーッと景色が移動し始めた。
心の中の一抹の不安と共に。
「何が?」
「……聞こえていたのか」
数秒前に落とした呟きに思い出したかの様な問いが帰ってくる。
その気の抜けた声にゆっくりと息を吐いて改めてシートに体を沈めた。
「お前が俺以外の家の人間がいるところで俺に何か意見を言う事だ。珍しいだろう」
「確かにね。……でも、どうしても行かなければならない気がした」
普段の飄々とした雰囲気からはとても想像できない
真剣かつ冷静な櫻井の声が車内に響く。
「……根拠は何だ」
「根拠?そうだな、執事の勘、とでも答えておこうか」
「今はまだ執事じゃないだろう」
「じゃぁ運転手の勘で」
「ほぉ、今日は珍しい事だらけだ」
俺は片目を細めて窓の外を見やった。
本格的に異変を感じ始めた五感が研ぎ澄まされる。
少し長く息を吐いて口を開いた。
「まず、今日はやけにスピードが速いな」
俺の冷めた口調に智一は何も言わない。
頭の回転が速い奴の事だ、俺の言いたい事は全て解っているのだろう。
――智一は運転のプロである故に、客い自分の出しているスピードを絶対に悟らせない。
目的地に時間丁度に着くように巧みに加速と減速を駆使する。
それなのに、今日はあからさまにスピードが速い事がわかる。
つまり普段より加速している以前の問題として、それを隠す余裕が無いということだ。
それ程智一が何かに焦っている、という事でもある――
「他には?」
俺の次の言葉を待って智一は薄く笑う。
無論、笑っているのは口元だけで瞳は鋭く光っていた。
「お前が根拠の無い理由で焦る事はありえない。何かあったんだろう」
「だって若い男の声って言ってたじゃないか、お爺様が。
暁だって心当たりが無いわけじゃないだろう?」
若い男の声。
飛天閣の従業員でそんな声の持ち主は一人しか思い当たらない。
しかし彼にしても帰りの様子から見て特に危険な感じはしなかった。
「さっき本宅で用事を済ませている時、偶然綾波から電話があった」
「千裕?本宅に何の用だ」
綾波千裕。
朱雀家と並ぶ名家、綾波家の一人息子で
自分と同じく既に実質的なトップとして財界に名を馳せている
幼馴染の名前に俺は素直に驚く。
「別宅に電話したら本宅にいるって言うからかけてきたらしいけど。
主な用件はこの間の提携の話だった。
でもそのついでに興味深い話を聞いたよ。
……あの少年、ただの子供じゃない。
裏では相当有名なやり手だった」
キキッと車が急ブレーキを立てて止まった。
それと同時に飛び出した俺の背中に智一の声が被る。
「詳しい事はわからない。
ただこのままだと楓さんが危ないんだ、急げ!」
全てを聞き終える前に遊郭の暖簾をくぐった。
支配人に適当に話を通して事務館の廊下を早足で進む。
何故こんなにも焦っているのか自分でも解らない程に。
「っふ、あぁ……ゃ、ぁ、っん……」
不意にその場にそぐわぬ艶めいた声が響いた。
しかも、その声は聞き覚えがある。
まさかと思い声のする方に歩み寄ると
暗い館内で一部屋だけ細く開いた襖の間から光が見えた。
「……っ!!」
そこにいたのは妖艶な笑みを浮かべているあの少年と、
その彼の手で乱れる楓。
喉の奥に何かが詰まったような感覚に襲われる。
瞬間的に嵌められた事を悟った。
――どうする、今部屋の中に入るのはまずい。
かと言ってこのまま楓を放って置けるはずも無い――
絶え間なく聞こえる彼女の喘ぎ声に焦らされながらも必死で思考する。
すると部屋の中をチラリと見やった瞬間に仲の少年と目が合ってしまった。
反射的に思考回路が凍結して絶対零度の視線で対応する。
存在がバレてしまった以上はここにいる意味もなかった。
彼の目的は自分にこの現場を目撃させる事だ。
ひらりと踵を返して廊下を戻ろうとする。
悔しいがここは完全な敵陣。
どうこうするには少し条件が悪すぎた……。
「あ、きら……さ、ま……!」
「っ!?」
進もうとしていた足が否応なしに硬直する。
心拍数を上げて異常を訴え続ける心臓を服の上から押さえつけて振り向いた。
今、何が聞こえた?
自分に都合の良すぎる言葉に俺は立ち尽くす。
聞こえたのは間違いなく楓の声で、発せられたのは聞き違えようのない
自 分 の 名 前 。
頭がが真っ白になる。
俺は体の奥底から来る震えに耐えて何とか再び遊郭の暖簾をくぐった。
「っ何があった!」
異常な程の顔の白さに眼を見開いた智一が慌てて後部座席に手を伸ばす。
俺はその手を出来る限りやんわりと制しながら息をついた。
「……情けない話だ、他の男に抱かれている楓が叫んだ自分の名に
こんなにも動揺するとはな」
「どういうことだ、他の男に抱かれてるって楓さんは……!」
「騒ぐな。取り乱すなどお前らしくもない」
多少の時間もあって少しずつ冷静さを取り戻しつつある思考回路で乾を抑える。
もっとも、人のことを言えた程自分が良い状態ではないのも承知の上だった。
「……楓が、例の少年に抱かれていた。
無様なものだ、相手の策に気付かずに敵陣へ踏み込むなど素人のやることだ。
奴の目的はその現場を俺に目撃させることだったんだろう」
「楓さんは……」
「……まだ、中にいる」
苦しげに吐き出された俺の言葉に智一が息を呑む。
しかしそれも一瞬で彼はスッと切れ長の瞳をこちらに向けた。
「時間が少ししかなかったから大した事は調べられなかったけど、
あの少年についていくつかわかったことがある。
名前は譜遊、生まれも年齢も不詳。
6年前に遊郭の主人に買われてずっと育てられてるけど
店で起きたトラブルの後始末なんかもやってたみたいだ」
彼は、譜遊という名の彼は今までどんなものを見てきたのだろう。
まだ少年と呼んでも差し支えないほどの幼い彼が、
世の中のどんな汚い部分を見てきたのだろう……。
そんな考えが少し頭を掠めたがそれを長い溜息で消し去る。
それとこれとは話が別だ。
「今日は一旦退こう。また明日、様子を見に来る」
俺はそれだけを短く告げると
ゆっくりと瞳を閉じようとして、ふと窓の外を見やる。
そうでもしていないと先程の光景が思い出されそうだったからであった。
翌日、楓が俺の前に姿を現したのは
色町に灯りが燈るにはまだ少し早い夕刻だった。
「楓」
ずっと呼びたかった名前を愛おしげに呟く。
すると彼女の紅い唇がゆっくりと動かされた。
「暁……さま」
蘇る、熱。
咄嗟に左手を強く握り締めて彼女を自分の前へと誘う。
それでも静かなる炎は一度燃え上がってしまえばどうする事もできず
目の前に座った楓を今の自分の最大限の優しさで包み込んだ。
「楓」
「はい、暁さま……」
もう一度名前を呼べば、そっと返ってくる何度夢に見たか解らない言葉。
狂おしい程の衝動に駆られて再度口を開こうとした、その時。
ガラリ。
「……失礼します」
「ふ、譜遊さん……?」
不躾に開けられた襖と、見覚えのある顔。
「貴様、再度も……」
瞬間的に脳内を怒りの色が侵食するが
譜遊はそれをも気にせずに淡々と続ける。
「いえ、彼女に薬とを頼まれまして……失礼します」
盆に乗せられたそれは浅葱色の液体の入った瓶で、
彼はそれを入り口から一歩のところに置くと
そそくさと出て行ってしまった。
昨日の、反作用であろうか。
咄嗟に思い当たった原因に俺は胸中を掻き乱しながら
瓶の蓋を捻って楓の唇の間へと流れ込ませる。
「楓?」
「いえ、何でもないのです……暁さま」
何処か遠くを見つめている彼女に声をかけるが
返ってくるのはまたしてもあの愛しい音色。
流石に真正面から見つめられて瞳がざわついた。
楓の細い肩を掴んで優しく布団に押し倒す。
そして額、頬、鼻、唇と順に口付けた。
まだ薬の残る口内にゆっくりと舌を挿し入れる。
「ん、っつ……ふぁ……」
吐息を漏らしながら逃げ惑う彼女の舌を捕らえて絡めた。
細い指が行き所をなくして肩に爪を立てる。
金色に塗られた、爪を。
その挑発的な色に眩暈を覚えながら唇を離すと銀糸が闇に映えた。
「楓……」
穏やかな声で彼女の名前を呼んで微笑む。
楓の柔らかな唇を最後に一度啄ばむと
その細い体を自分の腕に抱きこみながらそっと横たえた。
「え、暁さま……?」
驚きに体を起こそうとしながらこちらを見てくる楓を
再度強めに抱き直して囁く。
「構わない、たまにはゆっくりしよう。
最近本家に通い詰めで少し疲れているんだ」
「そんな、私などと……!」
更に続けようとする楓の唇を塞いで目で促した。
彼女は一瞬困ったように眉を寄せたが
諦めたのか静かに瞳を閉じる。
それを見届けて自分もそっと瞼を下ろした。
彼女の甘い香りに身を任せて……。
しかし辛うじて保っていた理性は限界を迎えていた。
彼女の甘美な声と、金色の爪によって。
決して触れる事の許されない堅い封印が
解かれる――。
その日以来、俺は楓を抱けなくなった。
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大変長らくお待たせしてしまいましてスミマセン!!!
美味しい設定に酔いしれすぎて
気付けば取り返しようのない事態になっておりました(土下座)
椎葉様に続いて大人なシーンにチャレンジしましたが玉砕。
スミマセン、管理人は甲斐性なしです(ぇ)
新キャラ登場で話をごちゃごちゃにしてみました(コラ)
お次は不知火様ですー。