「失礼します」



「……何だ」


突然の乱入にそう低く尋ねた自分の声は
行為の最中に割り込まれた苛立ちよりも、
原因不明の安堵感の割合の方が多くを占めていた。







蒼い月







思考を緩慢にする熱気の籠もった部屋から1歩ふみで手後ろ手にそっと扉を閉める。
前方をスタスタと歩く少年の背中を一瞥すると
彼は瞬間的に筋肉を収縮させたが
それもほんの一秒にも満たない時間で
すぐに何事も無かったかの様に足を進めた。
廊下ですれ違う遊女達は目が合うとつややかに潤んだ瞳を煌かせて自分を見つめてくる。
隣に客がいようといなかろうとそれは同じで、
いらぬ面倒が起きる前に少年の後を足早についていった。
店の入り口付近まで来ると両脇に揃って頭を下げる女達の間を通って外へ出る。
すると少年は自分の役目はこれまでだとでも言うように立ち止まって振り返った。
「では私はこれで。またのお越しを心よりお待ち申し上げます、朱雀様」
完璧な営業用の笑顔で頭を下げる少年を横目に歩き出して、
すれ違い様にゆっくりと唇を動かす。
「今度からは定時に知らせに来てくれればそれでいい。
5分前に部屋を出ても後の用事がないのでな」
顔を上げて営業用ではない笑顔で自分を見つめる彼の視線を感じながら、
夕闇の中怪しく揺らめく艶やかな灯の中を歩いた。
少し先に黒塗りの車と見知った顔を見つけて息を吐く。
「迎え御苦労」
「早かったな」
口調は軽くとも恭しくドアを開ける彼の前を通って車の後部座席に体を沈めた。
多少の疲労感のある体に上質のシートは理想的ではあったが
落ち着いて瞼を閉じるには少し機嫌が悪い。


「飛天閣にいる少年を知っているか」
「少年……?あぁ、会計方の坊やの事か。
何年か前に拾われて働いてるみたいだが……懐かれでもしたか?」
「まさか。その逆だ」
「だろうな。子供に懐かれるお前なんて想像できない」
「……あれは子供ではない。男だ」

動いている事を微塵にも感じさせない滑らかな運転に身を任せて
外の景色に視線を送った。
そんな俺の姿をバックミラー越しに確認して口角を上げている運転手の男は
家に仕える執事の孫、櫻井智一である。
彼は少し間を空けた後口を開いた。
「暁と張り合おうなんて随分命知らずな少年だな」
「頼むから俺の一言でそこまで読むのはやめろ」
「執事たるもの主人の言動から先を読むのは当たり前」
「だったらあえてその話題には触れないでおこうとか
考えるのがいい執事なんじゃないのか」
言葉遊びの如く車内で投げ交わされる会話。
しかしここで智一が勝ち誇ったように笑い出す。
「あれ?触れて欲しくない会話だった?」
「……まぁな」
こうなってしまえば勝ち目はないと眉根を寄せて呟いた。
智一とはもう20年近くになる付き合いだが、
この手の会話で彼に勝てたためしは数えるくらいしかない。
「飛天閣の主人に伝えておいた時間より5分早くに迎えに来られた」
「え、最中にか!?また随分とやらかすな」
「馬鹿かお前は。
5分早く迎えに来られたところで別に何もない」
所在なさげに彷徨っていた手が煙草を探りあててカチッとライターを鳴らせば
彼は面白いものを見つけたかのように目を細めた。
「なら何でそんなに苛立ってるんだ。お前らしくない」

そう、智一の言うとおりである。
彼女との逢瀬をたかが5分縮められたからと言って
子供相手に本気で怒る程情けない男ではないつもりだった。
まぁその件に関しては放っておくつもりもないが。
とにかく一見自分がそこまで苛立つような原因はないように思えた。


しかし――


「……俺が苛立っているのは自分自身に対してだ」

ゆらりと紫煙を吐き出しながら呟きを落とす。


彼女と出逢ってから、
彼女を愛するようになってから、
俺を少しずつ蝕み始めた事情。


「……彼女は俺の名前を知らない」
「……教えてなかったのか」
「あぁ、だから彼女が俺の名を呼ぶ事はない。
だが、ふと理性が崩壊しかけた瞬間に
彼女に俺の名を呼んで欲しいと思うことがある。
……あの鈴の音色のように心地よく、
俺を深くまで堕ち入れる艶を帯びた声で」

本能的に、欲しがってしまう。
彼女の甘い囁きを。

「でも、もし彼女から俺の名を呟かれたら
俺は理性を保っていられる自信がない。
醜い独占欲で彼女を縛り付けてしまうだろう。
だからあの少年が入ってきたとき
心のどこかでホッとしている自分がいた……」
俺のなけなしの理性など、彼女の前では通用しない。
今の状態がもどかしいのも事実ではあったが、
一線を越えてしまう勇気がないのもまた事実であった。




「楓……」


ふと彼女に想いを馳せて窓の外を見やれば
頭上には丸く浮かぶ月の姿がある。
暗闇に侵食されて蒼く輝くその月は
情事の後の静まり返った空間と
妙に冴えた神経を思い出させた。



彼女の名前がゆっくりと煙の中に溶け込んでいく。











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どーも、3番手初風です。

既にリレーのテンポ感の存在が皆無になりつつあります(しょっぱなから己は)

スミマセン、精進します。


凄い趣味丸出しの話でスミマセン(謝り通し)

こんな美味しい設定で書けて本当に幸せです(安上がりめ)


では、お次は不知火様へバトンタッチです。