第三話:夜
【涙兎】
「茜さん、大丈夫?」
「あ、あゆみ!!あゆみは!?」
「シィーッ、さっき錯乱状態で・・・やっと寝付いたばかりなの。」
養護教諭は静かに微笑むと、自らの唇に押し当ててあった人差し指を下ろす。
しかしその指は「人差し」の形のまま、白のカーテンで区切られた隣のベッドを指す。
細く、白い指にカーテンが、音も無いままに操られる。
現れたのは、額に汗を流しながら眠る、シンユウの日比野あゆみだった。
「日比野さんね・・・よっぽどあなたのことを心配していたのね。」
「・・・あゆみ・・っ。」
演技も良い加減にしたら。別に知っていたし、幸平君があゆみとどんな関係だったかくらい。
もう慣れきった、頬を伝う水の温度に微笑。
そういえば、最初にあゆみと会った日も泣いていた。
「綾辻茜、アンタ調子乗ってるでしょ!」
はァ?そう言いたい気持ちを抑え、見た目どおりの大人しい少女を演じる。
入学式の帰り、茜と同じように小さな花のブーケを胸元に付けた女子生徒二人組に呼び止められた。
「あの・・・?」
まごついた茜にまた腹が立ったらしく、女の一人が茜を押し倒す。
「いい加減にしなさいよ!」
脇腹への蹴りが入る。そんなに痛くも無いけれど、取り合えず顔は歪めておく。ついでに涙も流しておいた。
どうしようか。
一発やってしまえばいいのかもしれないけれど。
そんなことしたら、折角の今までの布石が崩れてしまう。
どうせなら、顔に傷の一つや二つ付けて貰おうか。
皆に「綾辻茜」のか弱さ、をアピールするちょうどいいチャンスだ。
「ちょぉーっと!何してんの。」
二人組の背後にの光に、影が入った。
低い身長と、高い位置で結んだ二つのポニーテイルが分かった。
「・・・何よアンタ・・・・。」
振り返った二人組のうちの一人が、茜の方へ倒れこんできた。
「ちょ、ユキエ!アンタ何す・・ぎゃっ!」
二人が倒れてくるのを、身を捩ってかわしていると、小さい影が茜の手を引っ張った。
「大丈夫?」
「・・・う、うん。」
「そりゃぁよかったねっ。気をつけた方がいいよぉ、折角可愛い顔してるんだからぁ。」
傷でもついたら勿体無いね、とそれだけ言うと。擦り剥いた茜の肘を一瞥して、走り去っていく。
「一年五組の日比野あゆみ、弱い者イジメは許さないよぉ!!」
そういえば、彼女の胸にも「祝・御入学」という小さい花のブーケがあった。
「ん?」
足元に落ちていたのは、ピンクのウサギの絆創膏。
それを手にしながら、策略でも何者でもない微笑がこぼれた。
「・・・っ!せんせぇ・・。」
「綾辻さん・・大丈夫よ。」
「・・・ひっぅ、ぅぁ・・こうへー・・・・・くんッ・・!!」
強く、けれど優しく。
この学校に勤務して二年、その前に精神病院に勤めていたというこの教諭。
何も言わぬまま、ただ、綾辻茜の黒真珠のような髪を撫でていた。
「・・・・・・。」
「・・・・せんせ・・ぇ・・・。」
片腹痛い。それが感想だった。
どこで、そんな研修を受けたとか。どこで、どんな経験をしてきたのだとか。
そんなことは全く知らないし、興味すらもないけれど。
人が死んだ、というシーンで、別にショックも何も受けていない自分に、「可哀想」という眼差しを向けるこの教諭の事が、心から可笑しくてしょうがなかった。
養護教諭の真っ白な白衣に、どす黒く、快楽に歪んだ甘美な笑みが張り付いていた。
そして、茜を抱きしめる養護教諭の藤村風子も真剣な眼差しでどこかを見ていた。
乾いた唇を舐めながら、牢屋から逃げ出す二人。
「何で私に優しくするの。」
茜の瞳が赤髪の青年を捉え、細められる。
その目は、青年に対する疑いを間違いなく持っている。それも強く。
「ぁん?」
青年は茜をひと睨みすると、また前に目を戻す。
最短経路を頭の中で計算しながら走っている。戸惑いも何も無く。
「あたし置いていけばよかったじゃない。何でわざわざ」
「お前を殺すのは俺、あんないけ好かない看守に、俺の仕事の邪魔されたくないの。ワカル?」
俺はこの仕事別に嫌いじゃないし、他人に殺されると給料減るし、とぶつぶつ言いながら、赤髪の青年は茜を見つめる。嘘・偽りのない瞳の中に殺人者が映った。
「この仕事やってっと完璧さを求めるようになるワケ。じゃなきゃ、殺さなきゃいけないような快楽殺人者と一週間もいれるかよ。下手に情でも移ったらコトだかんな。」
カイラクサツジンシャ
その響きに、驚くでも悲しむでもなく、ただ茜は嬉しそうに目を細めた。
殺すために喜ぶんじゃないの。喜ぶために殺すの。
哀しさなんてあるわけない。楽しさ以外に何がある。
あたりにぴったりじゃない。「快楽殺人者」
「ねぇ。」
「あ?」
「殺しちゃうよ。」
目が合ったまま、青年は面倒臭そうな表情を崩さずに言う。
「自惚れも大概にしとけよ。自分が可愛いとでも思ってんのか?生憎、俺は乳臭いガキに興味はネェんだよ。気に入らネェ。だから、あと五日後にテメェを嬲(なぶ)り殺す。」
「・・・名前は何。」
絶対に答えてはくれないと思ったが、やはり帰ってきた答えは望んだ物とは違っていた。
「ハッ、テメェの死に際に教えてやるよ。」
少女はただ、黙って走っていた。
昨日の朝、正確にいえば一昨日。
かすかに見た幼き頃の自分の夢の映像が、目の前に揺れた。